伊藤真哉/三重

RUN DMCやヒップホップ、ラップ、DJバトル、MCについての新聞報道、メディアの配信記事をまとめました。~伊藤真哉/三重(MOVE)

RUN DMCから始まったアディダスジャージの流行

(1998年5月20日、朝日新聞)

DJやヒップホップのダンサー

最近、街でジャージを着た若者をよく見かける。アイドル4人の「SPEED(スピード)」のジャージー姿も登場した。体育の授業で使っただけの世代は「ダサーい」と感じるようだが、若者たちは、スポーツ感覚や気軽で多様な組み合わせができる点を評価しているらしい。実は、約10年おきに流行し、RUN DMCがけん引役となってDJやヒップホップのダンサーの間で広まって以来、1998年で3回目という。歴史は繰り返すのか。街着として定着するのか着る人、売る人、つくる人に聞いてみた。

大阪・ミナミのアメリカ村

大阪・ミナミのアメリカ村。ジャージーやナイロン製のパンツをずらりと並べたある店では、1997年秋ごろからよく売れ始め、一時は日に2、30本、土日は1日4、50本近く売れたという。店員の香川智哉さん(18)は「サッカー選手とか着てるし、シンプルで自分もよく着ますよ」。値段は数千円。購入者の6割は男性だという。

月刊ファッション誌「フルーツ」
ストリート

「東京・原宿周辺ではいまが全盛」と言うのは10代向け月刊ファッション誌「フルーツ」を発行するストリート編集室の小島規子さん。1998年2月号から紙面に登場する機会が増えている。上着の方が重用されており、古着中心。「2、3千円で気軽に何枚も買える。体操着には見えない子もいれば、見えるのをわざと狙ってる子もいて、コーディネートの幅が大きく楽しい素材」と話す。

アディダス

人気のスポーツブランドのひとつ「アディダス」によるとウエア全体の1997年度の売り上げは1996年度に比べ1割減ったが、トレーニングジャージーだけは2割増。1998年度もすでに5%の伸びと順調だ。安価な偽物も出回ったため、昨秋、偽物の特徴を図解した新聞広告を出した。

ラップグループ

DJバトル

アディダス営業本部、商品企画部長星田勲さん(47)によると、ブームはこれが3回目。最初は1977、1978年ごろで、1万円を割った廉価版がヒットし、購買層が拡大した。次は約10年後の1987、1988年。アメリカ・アディダス社と提携したラップグループ「RUN DMC」がアディダス社のジャージーなどに身を包んで来日。音楽とともに話題をさらった。DJバトルでもジャージ姿のラッパーが目立った。

海外ブランド

今回は「1996年秋ごろから海外ブランドでスポーツ素材が注目され、トレンドショップに並び出した影響です」という。

SPEED

14歳-17歳の女性4人の音楽グループ「SPEED」も、1998年4月末発売のアルバムジャケットで、ジャージー姿を披露。そのままCMにもなっている。発売元のレコード会社は「これから来るものや、今はやっているものなどから作り上げていって、本人たちのイメージとたまたま一致した」と説明する。

トレンドリーダー

星田さんは「ジーンズと同じ感覚でタウンウエア化してきたという見方もある」と期待しながらも、「街着としての定着は難しいでしょう。着ていないと乗り遅れるという感覚も強いのでは。トレンドリーダーの中高生は移り気ですから」と慎重だ。

ファッション情報誌「カジカジ」

関西の若者ファッション情報誌「カジカジ」の梅田顕弘編集長(28)は「おしゃれに見えるかどうかは時代の雰囲気。スポーツアイテムのポジション自体がおしゃれなものになってる」と分析。

酷評

ただし、年代によって、受け止め方もだいぶ違うようだ。アメリカ村の古着店員(18)は、20代女性に「何これ、中学校のときみたいやん」と店頭のジャージーを「酷評」されたという。

着こなし

梅田さんは「着こなしはかなり難しい。ジャージーのパンツは、おっちゃん、おばちゃんからすると『ちゃんとズボンはけ!』って感じかもしれません」と話している。

「RUN DMC」のJMJさんをしのぶ追悼CD&シューズを発売

米人気3人組ヒップホップグループ

(2003年2月20日、スポーツ報知)

ジャム・マスター・ジェイ(JMJ)
ウォーク・ディス・ウェイ

2002年10月に37歳で亡くなった米人気3人組ヒップホップグループ「RUN DMC」のメンバー、ジャム・マスター・ジェイ(JMJ)さんをしのんで、ヒット曲「WALK THIS WAY」(ウォーク・ディス・ウェイ)をカバーした追悼シングルと、アディダス社の追悼シューズが発売されることが2003年2月19日、分かった。

ラップ音楽
キング・オブ・ラップ

RUN DMCはラップ音楽の草分け的存在で、「キング・オブ・ラップ」と呼ばれる実力派。JMJは2002年10月、ニューヨークのスタジオでレコーディング中、何者かに頭を銃で撃たれて死亡。影響を受けたアーティストは多く、日本でも関係者に衝撃を与えていた。

SPHERE of INFLUENCE

追悼シングル「WALK THIS WAY feat.SORA3000」

追悼シングル「WALK THIS WAY feat.SORA3000」を発売するのは若手ヒップホッパー(MC)のSPHERE of INFLUENCE(23)。自身もRUN DMCの音楽に親しんでおり、JMJが凶弾に倒れた日はファーストアルバムの発売日という奇妙な縁もあったことから代表曲のカバーを決意。日本では初の追悼シングルが2003年3月5日にリリースされることになった。

DJスクール

追悼シューズはスポーツメーカーのアディダス社が企画。JMJの死後プライベートでも交流のあったアディダス社が残された家族に追悼シューズの製作を提案。3人の息子がデザインを担当し、売上金はJMJが設立したDJスクールに寄付される。

日本でも1000足分が発売

追悼シューズは全世界限定5000足で、発売日などは未公表ながら日本でも1000足分が発売される予定だ。

ヒップホップのDMC ソロ活動をスタート

(2006年9月4日、中日新聞)

1980年代に「ウォーク・ディス・ウェイ」をヒットさせ、ヒップホップを世界に広めた伝説のラップグループ、RUN DMCの元メンバー、DMCがソロ活動をスタートさせた。

グループ解散

2002年にメンバーのジャム・マスター・ジェイが射殺され、グループは解散。「JMJ(ジャム-の頭文字)」と刻まれたベルトのバックルを見せ、「彼のことは毎日考える」と真剣に語るDMC。「壁にぶつかると、あいつならどうするかなって思うんだ」

養子

事件が起きたころ、DMCは自分が養子であることを知った。「ショックだったけど、育ての親への感謝の気持ちが、わいてきたんだ。さらに、養子に出してくれなければ、ジェイら素晴らしい仲間に出会えなかったと思うと、生みの親の存在もいとおしく感じた」

チェックス・サグス&ロックンロール
サラ・マクラクラン

そんな心情を素直に表現したのが、新作「チェックス・サグス&ロックンロール」の「ジャスト・ライク・ミー」。人気歌手サラ・マクラクランとの共演作だが、DMCは意外な偶然を知った。

「曲が完成したとき、サラから『実は私も養子なの』と言われた。自殺願望に襲われた時期もあったけど、本当に生き続けてよかったと思う」

米黒人ラップグループ、RUN DMCのメンバー射殺される

DJ

(2002年11月1日、日刊スポーツ)

グラミー賞受賞
レコーディングスタジオで

3人組の米黒人ラップグループ、RUN DMCのDJジャム・マスター・ジェイさん(37、本名ジェイソン・ミゼルさん)が2002年10月30日夜(日本時間31日午前)、ニューヨーク市のレコーディングスタジオで頭を銃で撃たれ死亡した。2人組の犯人の動機などは不明。RUN DMCグループはラップグループとして初めてグラミー賞を受賞するなど「キング・オブ・ラップ」と呼ばれ、ラップ音楽の草分け的な存在として知られる。

ニューヨーク市クイーンズ地区

共同電や現地の報道によると、ジェイさんが射殺されたのは、ニューヨーク市クイーンズ地区にあるレコーディングスタジオ。メンバー3人が、2人の女性歌手のレコーディングを手伝って数人のスタッフとラウンジにいたところ、突然、若い2人組の黒人男性が乱入してきた。最初の1発でジェイさんの頭を撃ちぬき、ほぼ即死状態だったという。2発目はそばにいた男性スタッフのウリエコ・リンコンさん(25)の足首に命中、近くの病院に運ばれたが命に別状はない。犯人は逃走している。

現場となったスタジオには事件を知った多くのファンが駆けつけ、抱き合いながら涙を流すシーンが見られている。警察は犯人の行方を追うとともに、動機などについて捜査を進めている。

エアロスミス
ラッパーファッション

RUN DMCは1982年、ニューヨーク市出身の3人で結成。ラップ音楽の草分けとして知られ「キング・オブ・ラップ」と呼ばれている。1986年にはハードロックバンドのエアロスミスと協力して「ウォーク・ディス・ウェイ」を制作。この曲のヒットが当時、低迷していたエアロスミス復活のきっかけになったといわれている。アディダスジャージを街中で着るラッパーファッションも彼らがモデルとされる。

クラウン・ロイヤル
ダウン・ウイズ・ザ・キング

音楽情報誌「オリコン」によると、日本ではアルバム「ダウン・ウイズ・ザ・キング」(1993年)「クラウン・ロイヤル」(2001年)とシングル「ウォーク・ディス・ウェイ」がチャートイン。「クラウン・ロイヤル」は約3万9000枚を売り上げ、最高33位を記録した。

過去に射殺された主なミュージシャン
元ビートルズのジョン・レノン

1980年。ニューヨークの自宅マンションで暴漢に撃たれ死亡。後にマーク・デビッド・チャップマンが逮捕された。動機はサインを断られたため。

米歌手セレーナ

1995年。ファンクラブ創設者サリュティバル被告に射殺された。グラミー賞女性歌手。

ザ・ノトーリアスB・I・G

米ラップ歌手ザ・ノトーリアスB・I・G(本名クリストファー・ウォーレス) 1997年。所属するレコード会社をめぐる対立が原因で、ロサンゼルス市警の元警官に射殺された。

RUN DMCとは

オリジナル・ライムス

1982年にジャム・マスター・ジェイさんとRUN、DMCの3人で結成。1983年に初シングル「IT’S LIKE THAT/SUCKER MCS」を発売し、R&Bチャートでトップ20入りる。1984年発売のアルバム「RUN DMC」はヒップホップ初の大ヒットアルバム作となる。1986年にはラップグループとして初めてグラミー賞を受賞。2002年12月4日にはジェイさんの遺作の形となるベスト盤「オリジナル・ライムス~グレイテスト・ヒッツ」が発売予定。

ヒップ・ホップ・ファッションがクールだぜ

米国ファッション業界に旋風

(2003年8月16日、産経新聞)

ラルフ・ローレン(ポロ)
ファット・ファーム ショーン・ジョン・コレクション

ヒップ・ホップやラップ系ミュージシャンがつくった若者向けのカジュアル衣料のブランドが米国のファッション業界に旋風を巻き起こしている。ラルフ・ローレン(ポロ)などの大手ブランドに匹敵する勢いだ。

「G―Unit」「フェティッシュ」

人気グループ、50Centのブランド「G―Unit」がこの2003年8月中に、また女性ヒップ・ホップ・ミュージシャン、Eveのブランド「フェティッシュ」が9月にそれぞれ商品を発売する。

ファット・ファーム

1980年代初め、「ウォーク・ディス・ウェイ」の大ヒットでラップをメジャーな存在に押し上げたラップ・グループ、RUN-DMCのメンバーが実兄のラッセル・シモンズ。彼が11年前の1992年につくったブランド「ファット・ファーム」は百貨店でも人気の一流ブランドに成長。2002年はついに約3億ドルの売り上げを記録し、新ブランドも相次いでいる。

パフ・ダディ
ショーン・ジョン・コレクション

同じく人気ラッパーのパフ・ダディが4年前の1999年につくった「ショーン・ジョン・コレクション」も「ファッション・ショーもバブル期を思わせる豪華な内容で破竹の勢い」(関係者)という。

何といってもこれらのブランドは、当のミュージシャン自身が着用し、マスコミ媒体で自在に“宣伝活動”できるのが強みとあって、他の既存ブランドは文字通り、戦々恐々だ。

エミネム
8 Mile

ヒップ・ホップやラップ音楽は、いまや米国で、ロックやポップスを押しのけて主流の座に収まりつつある。過激な歌詞で知られる超人気ラッパー、エミネムが主演した彼の自伝的映画で、2003年封切られた「8 Mile」は米国で記録的なヒットとなり、こうした音楽の人気の高さを裏付けた。

リップスライム
日本でも

日本でも「リップスライム」のCDがヒットチャートの上位に食い込むなど、これらの音楽の人気は2003年の近年、非常に高く、彼らのファッションをまねる若者も増えている。こうしたファッションが日本でも流行する可能性を指摘する関係者は少なくない。

キック・ザ・カン・クルー

KICK THE CAN CREW

(2002年6月3日、スポーツ報知)

1996年12月、結成のきっかけとなった曲「カンケリ」を発表した3人。彼らは、いったいどのように知り合ったのか。

クレヴァ、MCU、リトル
ボビー・ブラウン

ちなみに、最初に影響を受けたアーティストは、クレヴァが「中学2年か3年のころに、ジュークボックスで聴いたボビー・ブラウンの『Every Little Step』」、MCUが「小学校のころに見たRUN-DMC」、リトルが「スチャダラパーとかイースト・エンドとか」。入り口はそれぞれ違うが、高校を卒業するころには、3人ともにヒップホップにのめり込んでいた。クレヴァ、MCUはそれぞれユニットを組み、リトルはソロで、すでにイベントに参加していた。

ラッパーが集まるイベント
カンケリ

ただ当時は、リトルが「とても小さなコミュニティー」というように、ラッパーが集まるイベントは多くはなかったという。しょっちゅう顔を出していれば、すぐに名は知れ渡る。当然、アーティスト同士がイベントで出会うことも多かった。3人は自然にお互いの名前を知り、飲み友達となった。その流れで「カンケリ」が誕生する。

シングル「タカオニ」

「カンケリ」は思いのほか好評だった。まだ、それぞれのユニットで活動していたが、イベントで3人がそろうと、必ずといっていいほど披露するようになる。それが高じて9か月後「3人でシングルを出そう」という話が持ち上がってきた。3人が「一緒にやっていこう」と考え始めた時期でもあった。「シングル出すんなら、名前をつけなくちゃいけないなと思って」(クレヴァ)。キック・ザ・カン・クルー。察しの通り「カンケリ」からつけた名前で1997年8月、シングル「タカオニ」を発売した。

ライブ

一緒にやる、といっても、まだ2曲しかなかった。それでも、キックはいろいろなライブに呼ばれるようになる。

メジャーデビューシングル

記念すべきメジャーデビューシングル。タイトル通り、自分たちの「個性」に対する考え方が歌詞になっている。メジャーになっても「誰もまねのできない」「自分だけのやり方」でやっていきたいという意気込みのようなものも感じられる。メンバーの中でも最近の人気曲だとか。

MCU(MCユー)
ラッパーとして長いキャリア

1973年8月1日生まれ。28歳。名前は本名・雄志の「雄」からとった。メンバー最年長で、ラッパーとしてのキャリアも長い。